いち はじめの、パンくず

いち はじめのだいたい日記、詩、短歌を書くところ。

『歌ってみた』、ではないのです

自分たちの歌と他人の歌をうたうことは全くちがう。他人の歌は良くも悪くも他人のもので、であるからして、自分の解釈の余地を含んだところで、何にも崩れないし壊れないからだ。

 

最近「おやすみソング」と称してカバーをRadiotalkに配信中しているのは、歌をうたいたいから、その気持ちを外に出したいという由がある。自分たちの歌ではダメなのかと問われたら、口籠る。なぜかはわからない。わからないことが自分の中にあることだって、ある。

 

昨日配信した「カバー」で、岸田くんに、「これは『歌ってみた』なの?」と問われた。わたしの中では『歌ってみた』と「カバー」または「コピー」は、違うもののように思っている、らしい。

 

『歌ってみた』って言うには、あんまりにもわたしの歌は自分勝手だと思うのだ。自分勝手に、解釈の余地に十分に甘えて歌う。そういう歌が今は歌いたくて、だから他人様の歌をうたっているんだろうと思う。

 

『歌ってみた』は、なんかもっと、もっとずっとすごいもの、って感じがする。わたしは手を出さないなあと思っている。

 

なんつって、しれっと『歌ってみた』って配信したら、指差して笑ってください。

5時間の自由

特急に乗ってどっか行っちゃおうかな、と思うことがよくある。

JR新宿駅の構内を歩いていると、色とりどりの電車が行き交い、終着駅が自分の最寄りよりもうんと遠いと、なぜわたしはこれに乗らず真っ直ぐに帰路に、または職場に向かうために、電車に乗ろうとしているのだろうと、不思議に思う。

 

5時間あったら、一体どこまで行けるのだろう?飛行機は人生で一度しか搭乗したことがなく、あんな怖い思いは2度とごめんなので、断然絶対電車がいい。羽田やら成田やらまで、何時間かかるか検討もつかないし。

 

たとえば新宿駅から特急かいじに乗ったら、すぐに山梨まで行ける。新宿で降りずに東京駅まで行き、迷路のような構内を掻い潜り、新幹線の改札まで行ったら、もっとうんと遠くまで行ける。のぞみになんか乗ってしまったら、本州だって脱出できるのに。

 

だのに何故わたしは、真っ直ぐに帰路に着くのだろう。その5時間にある「自由」を、選ぶことは、とても恐ろしい。

 

けれど同時にその「自由」はえらく魅力的で、いつでも私の耳元でささやく。乗ったらいいじゃないの。遠くに行ったらいいじゃないの。そしてそのまま其処の人として、生き直してみたらいいじゃないの、と。

さみしく、さもしい、言葉の体温

今更なんで、ということは、往々にしてありますが、今更なんで「いち はじめ」=「あるはるかのさえぐさ」ということをしれっとお知らせしたのか、自分でもよくわかりません。

 

ほんとうは、「でっかい賞をいちはじめで獲ったら発表するんだ」とか、よくある野心を持っており、ことごとくそれは叶わず、だけれどもやっぱり詩を、短歌を、日記を書くのは面白く、結局なんで分けていたのかもはやどっちでもいいか、と、なったのだろうと思う。

 

神様は平等ではないとわたしは思う。仏様もそうだろうし、私の知らぬ名を持った神様もそうだろうと思う。いくら焦がれてもどうにもなないことは、残念ながら、ある。それはもう、きちんとわかっている。

 

その上で、やはり書きたいから書いており、人の目に触れたいと思っているってことだ。全くもってご立派な野心だこと。

 

わたしはさみしい人間だと思う。さみしく、そして、さもしい人間だと思う。落ち込んでいるわけではなく、これが、わたしなのだと思う。これが通常運転の、日々の、営みの、わたしの言葉の体温だと、思う。

砂の、愛の、後の、穴蔵へ

毎日が砂のように過ぎ去って

残るものは後悔か懺悔か痛惜か諦念か

マグマのように煮え沸る命は消え失せて

終着駅を欲している、はやく、線路の終わりを、その先を、その先の穴蔵へ、わたしを、あなたを、いや、やはりわたしだけをこそ、その先の穴蔵へ、穴蔵へ、穴蔵へ

 

愛を感じた瞬間に

もうここで目を閉じてしまいたくなった

この先にまた、いつか、天と地が裏返る日を見たくないから

愛を感じて今、今ここで、このまま

 

穴蔵の先は何もなくていい

穴蔵へと向かう背中すらあなたには見ていて欲しくなく

穴蔵へそっと、そっと、そっと帰る

ただ帰る

 

わたしはただ帰りたい 帰りたいだけだ

泳ぎ疲れるまであそぶ

最近コツがわかってきたかもしれない。短歌の話。いい短歌なのかどうかはわからない。ただ、「自由だなあ」と思う。

 

5、7、5、7、7のリズムに(結構破調するけど)こんなに抵抗感がないのは、たぶん、小学校とか幼稚園のころとか、もっと小さいころから、「赤信号みんなで渡れば怖くない」みたいな、もしくは交通安全標語みたいな、そういうものに触れていたからだろうなと思う。

 

日本人だから、とかじゃなくて、自然とまわりにその「リズム」が溢れていた、そこになんの疑問も持たなかった、そういう環境は内在化されて、意識せずともリズムを掴み、言葉になるんだろう。

 

でも私が書けるのも読めるのも、現代口語短歌だけ。古語は難しくて意味が取れない。意味が取れるようになりたいな、と思うまでは、現代口語短歌のプールで、しっかり泳ぎ疲れるまで、遊んでいたい。

 

やらなくてもいいことなのだから。やらなくてもいいことに、ひとつの、確信を持って、楽しんでいるのだから。

ターニングポイント

特別な日、というのは、ある日突然やってくる。過ぎ去ってしまったら忘れてしまいそうだから、今日ここに、残しておこうと思う。

 

昨日、目の前に、新しい扉が現れた。そんなつもりもなかったところから、繋がりがうまれて、今までだったらしなかった、「自分にはできるスキルは今はないかもしれないけれど、それでも、やってみたい」と、えいやっとその扉をノックしてみた。そうしたら、扉の向こうはとてもやさしく、丁寧に私の話を聞いてくれる人がいた。

 

仕事は仕事だから、慈善事業ではないから、何もできないままではきっと、この扉は閉じてしまうのだと思う。掴んだ運を、縁に変えていくために、わたしはいま、動くときなんだと思った。

 

岩のように動かない自分にはとても珍しいことで、慎重に慎重に自分の「背丈」を測っては、「これくらいしか自分にはできないだろう」といつのまにか思っていたのに、どうしてこんな行動ができたのか、様々なタイミング、大事な人からの言葉があったから、としか言いようがない。

 

動くならきっと今なんだ。それが肩透かしで終わったとしても、この気持ちを持つことができたという事実を、忘れたくないなと思った。

 

そして今朝、母から誕生日おめでとうのLINEまで来ていた。消えてほしくないから、メモに貼りつけて、保存した。もしかしたら私は、私が思っているよりもちゃんと、大切にされていたのかもしれない。

 

2021年5月11日と5月12日は、私のターニングポイントだ。たぶん、そんな予感がする。そんな予感を持てることが、ただただ、嬉しい。